第65回大会 ワークショップ「東日本大震災から見えてきたこと(2)――女・こどもの倫理(2)」


〔アーカイブ・データ〕
・「第65回大会報告集」
・「会務報告」『倫理学年報』第64集(2015年3月30日発行)
・(関連論文)金井淑子「プロメテウスの火をもてあそんだ人類の「再生」への困難な道のり―哲学・人文知と科学の知との「協働・共創」の真価が今問われている」『学術の動向』17 巻 5 号(2012 年5月発行)


第65回大会報告集

東日本大震災から見えてきたこと(2)
  ――女・こどもの倫理(2)

実施責任者 高橋久一郎(千葉大学)

 長い目で見れば「忘れる」ことは大事なことであると思う。しかし、「しばらく」は忘れてはならないことがある。2011年の大震災との関わりで、そこに露わになった倫理学の問題について「生命の倫理」の可能性と重要性という全体テーマのもとにワークショップを何回か開催したいと思っている。

 ということで、昨年に引き続き、「女・こどもの倫理」というテーマで開催する。理由は単純である。時が過ぎ、再び、社会的にも、そして、倫理学会的にも、提示された問題が無視されようとしているからである。

 他方で、「リスクと管理の論理」が強力に展開しつつある。実は、私自身は、この論理に「真っ向から反対」というわけではい。むしろ、論理としては、「女・こどもの倫理」よりも理解しやすい。状況としても、具体的な数値について格段に見ることができるようになっているから、来年度以降については、一度、「リスクの論理」についても開催したいと考えているが、それだけに、今回は、この「女・こどもの倫理」というテーマでワークショップを開催しようと思う。

 ここで、最初にワークショップ開催に手を挙げた時の趣旨の一部を再録しておきたい。

 「子供を連れて「逃げた」母親がいる。「留まった」母親もいる。どちらにも賞賛と非難がなされた。何が問題とされたのか? 何故それが問題とされたのか? 何となく分かったように思っているかもしれないが、ここにある問題も、また問題を論ずる論理も、必ずしも明らかではない、あるいは、少なくとも共通の理解とはなっていないように思われる。」

 今回は、社会学の研究者である廣本由香さんと金井淑子会員とに提題を頂くことになった。

 廣本さんには、改めて具体的な事例から問題を照射していただき、金井会員には、具体的な事例を理論的な検討に繋ぐ場面での視座について話していただけると思っている。

福島原発事故の母子避難(自主避難)にみる小さな生活世界の「創造」

廣本由香(立教大学)

小さな生活世界の「創造」

 母子避難の問題は「女」の論理や「母親/父親」役割から語られる傾向がある。

 かねてから反原発運動・反核運動の表象として「母親」「母性」が用いられることが多かった。福島原発事故後も県外に自主避難する母親たちが反原発運動に積極的に参加している状況がメディアで報じられたが、当然、自主避難するすべての母親が反原発運動に関与しているわけではない。鳥栖で出会った母親たちのなかにも、デモや抗議活動に参加する人や、デモには参加しないが署名運動には関わるという人もいたが、多くの母親は反原発運動に対して肯定的な態度をとるわけでもなく、否定的な態度をとるわけでもなかった。反原発運動に対して柔らかい物腰で距離をとっていた。だからといって、福島原発事故の加害者である東京電力や国に対する怒りがないわけではない。事故前のように家族が揃った生活をしたいと思っている。返してもらえるものなら、故郷や地元での平穏で健康的な暮らしを返してほしい。原発のない社会を望む気持ちもある。

 ただ、鳥栖の母親たちは、原発抗議行動などに積極的にコミットメントして社会変革を求めるのではなく、身近な人や大切な人と小さな生活世界を「創造」し、その小さな生活世界を守っていこうとした。誰かのためでもなければ、社会のためでもない。自分たちのためにである。こうして鳥栖に自主避難した母親たちは自らが置かれる状況や生活そのものをつくり変えることに邁進した。母親たちの生活の「創造」はいわゆる社会運動論でいう運動とはほど遠いが、社会システムへの小さな「抵抗」であるといえる。
 
緩やかなネットワークと「頼りすぎない支援関係」

 一人の母親が「ピンクバードセカンドホーム」(以下「ピンクバード」)という自助グループに似た、緩やかな避難者ネットワークをつくった。「ピンクバード」では、鳥栖住民との「頼りすぎない支援関係」(被支援関係)を築いた。地域の人々から支援されてばかりでは居心地が悪いと、支援物資のお礼に鳥栖市内で開催されたイベントに参加し、地域の人々に向けて芋煮を無料で配ったり、手作りの小物をわたした。一方的に支援される状況を当然とせず、できる限り自立した生活をもとめた。

 他方で「ピンクバード」を軸にした母親たちのネットワークでは、顔の見える範囲の個別具体的な社会関係を大切にしていこうという生活実践があった。たとえば、誰かの部屋におかずを持ち寄って食事をする。子どもたちが遊ぶ横でお茶をして、おしゃべりをする。ひとりの母親が体調を崩したときには、周りの母親が子どもを預かる。子どもにご飯を食べさせ、お風呂に入れて帰してくれる。乳児を抱え身動きがとりづらい母親がいたら、買い物を引き受ける。些細な会話や同じ集合住宅に住んでいるのに長電話をする。そのような関わり合いに、夫以外話し相手がいなかった母親は救われたという。こうした関係性が避難生活の足場になり、社会関係のない土地に飛び込んだ自主避難者の居場所になった。

 ただし、母親たちの小さな生活世界には、離れて暮らす父親(夫)や家族(親族)、地域(避難元)の関係性が編み込まれている。これらの関係性が持続しているからこそ、母親たちは避難に迷い、葛藤し、苦悩のなかで避難生活を続けているのである。このような状況を踏まえながら、鳥栖の母子避難(自主避難)の生活について論じていきたい。

ポスト・フクシマの生/身体――女・子どもの倫理へ

金井淑子(立正大学)

 3.11に先立って、私の倫理学とフエミニズムに寄せる問題意識の交差するところには「ケアロジーを創る」「ケアの思想を編む」「ケアの倫理」さらに「フェミニンの哲学」といった主題が大きく前景化していた。人間存在のヴァルネラビリティに根差したケアロジー、自己へのケア、記憶のケアなどいくつかのキーコンセプトを立て概念図をえがきはじめていた。その矢先の「東日本大震災」との遭遇。足元の地盤ごと身体の深奥を揺さぶられたこの経験を不問にしてもはやケアロジーの構築など考えられない。描きかけていた私のケアロジーの概念図に、人間と自然の関係における節度ある関係性を担保するキーコンセプトとして「自然のサステナビリテイ」の言葉が書きくわえられ、「ポスト・フクシマの性/身体」の主題と向き合うこととなった。

 高橋氏が、「女・子どもの倫理」でワークショップ企画を提案してきたときはストンと胸に落ちてきた。「生命」という価値を基軸に、リベラルといった理念やリスク分析といった手法の意義と限界を検討し、より大きな枠組みの中でそれらを位置づけなおすという趣意にも、「女・子どもの倫理」を中心にして倫理のあり方を裏返してみようという目論見にも素直に同感できた。

 ただ高橋は、「女・子どもの倫理」(普遍的な倫理の枠組みを問いつつも「具体的な場面・現実から語ること」)を求めている。昨年度の若き二人の提題者(米田祐介、福永真弓)は、「いのち」と、新出生前診断を前にした生の新たな統制・管理や、「いのちへの感度」をめぐる女とコミュニテイの間のせめぎ合う価値葛藤的な攻防をとらえ返し、「ケア」の主題の中でまさに具体的に「生命の倫理」につなぐ視点を描き出そうとしている。彼らからのバトンを引き継ぎ、二年目のこのワークショップで私は、「女・子どもの倫理」をどう語るか?

 とりあえず、「〈いのち〉への視座――〈女/母わたし〉からの倫理」と立てておきたい。できるだけ具体的場面・現実から語るように努めたい。それ故、あえて平仮名書きで「いのち・からだ・くらし」と書き、生き物としての人間の水や空気さらに土と言った自然とつながる日々の営みや食のあり方、さらに産や育、介護、介助、看取りなど、人の世話に関わることがらすべてを包括するような「ケア」への視座の中で「女・子どもの倫理」を立てていきたい。

 6月に、関係するフェミニズム系の学会開大会の場で、私は「母性神話の解体の後に、〈母〉を召喚する! 〈女/母わたし〉からの身体性へ」と題する、フェミニズムの場面に向けてはいささか挑発的なテーマでの発言に及んだ。もとよりジャン=リュック・ナンシーの「主体の後に誰がくるのか?」に倣って立てたテーマであるが、「母性の呪縛からの解放」を求めて運動・理論両面で格闘してきた日本のフエミニズムが、いま改めて〈母〉の主題と向き合うべきときにあること、安倍政権下のウーマノミクス経済戦略のもとで女性の身体の「働くこと/産むこと」の矛盾、「女の身体が負う“ままならなさ”」がいま社会スキャンダラスに浮上している。そこに〈女/母わたし〉からの身体性の主題を立てていきたいという思いからだ。「3.11、ポスト・フクシマ」の母たちの間の対立や葛藤の問題とも無関係ではない。いのちをめぐる攻防の、フクシマの若い母親たちの運動が、わが子意識を超えて大きな母につながるために、未来世代への責任倫理に向けて「近代」と対峙しグローバル化する世界への対抗軸が問われていると考えるからだ。とりわけ放射能の脅威にさらされる人類が、人間とテクノロジー・自然との関係をどのように編み直すか、その価値軸・倫理的支柱への問いを立てようとするとき、「母」や「女の身体性」の召喚が問われる。未来世代への責任倫理への問いを担保するための、〈女/母わたし〉という一人称である。最後に、葛藤に満ちた母をめぐる短歌四首を。

産むならば世界を産めよものの芽の沸き立つ森のさみどりのなか
                        阿木津 英
母われも育ちたし育ちしと思えば吾子をおきても行くなり
                        五島美代子
子を連れて西へ西へと逃げていく愚かな母と言うならば言え
                        俵万智
なぜ避難したかと問はれ「子が大事」と答へてまた誰かを傷つけて
                        大口玲子

金井淑子『倫理学とフエミニズム ジェンダー・身体・他者をめぐるジレンマ』2013ナカニシヤ出版、金井淑子編『〈ケアの思想〉の錨を――3.11、ポスト・フクシマ〈核災社会〉へ』2014同、金井淑子「3.11、ポスト・フクシマの被曝男女のリプロダクティブ・ライツをめぐって」立正大学文学部論叢151号2014。

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 昨年度のワークショップへの案内の文言を(一年繰り下げて)繰り返しておこう。一昨年度の大会の共通課題の実行委員、提題者、そして関連して開催されたワークショップ・主題別討議の提題者、さらには、昨年のこのワークショップの出席者、そしてもちろん、はじめて「あなた」にこのワークショップに参加して頂ければ幸いである。   (高橋久一郎)


関連資料

◆(関連論文)金井淑子「プロメテウスの火をもてあそんだ人類の「再生」への困難な道のり―哲学・人文知と科学の知との「協働・共創」の真価が今問われている」『学術の動向』17 巻 5 号(2012 年5月発行)
  ※リンク先:J-STAGE


会務報告(所収:『倫理学年報』第64集(2015年3月30日発行))

高橋久一郎

 昨年に引き続き、今年も「女・こどもの倫理」をテーマに、廣本由香氏(立教大学大学院・非会員)が「福島原発事故の母子避難(自主避難)にみる小さな生活世界の「創造」」、金井淑子氏(立正大学)が「ポスト・フクシマの生/身体――女・子どもの倫理へ」という題目で提題をおこなった。廣本氏から後日以下のコメントをいただいた。「福島第一原発事故から四年目を迎えようとしている。社会的関心が薄れ、忘却が進んでいく。そして、被害者が置き去りにされ、被害が潜在化していく。今回のワークショップでは、「自主避難者」が背負う「傷み」、いわば損害賠償の枠組みからこぼれ落ちる「被害」を、避難者と作成した聞き書き集『鳥栖のつむぎ』をもとに報告させていただいた。子どもの被曝問題やケア関係、福島原発事故と水俣病事件との類似性など多角的な視点があがり、刺激的なワークショップだった。被害を訴えにくい社会状況のなかで、いかに研究者や支援者が被害者の「声にならない被害」をすくいあげることができるのか。いままさに「研究者が試されている」(フロアーからの意見)のだと思う。」