リスク管理の私事化論と東京電力福島第一原子力発電所の事故/Privatization of risk management and the accident at TEPCO’s Fukushima Daiichi Nuclear Power Station


所収:『立正大学哲学会紀要』第15号(2020年3月発行)

横 山 道 史
YOKOYAMA, Michifumi

1 問題の所在

 リスクは、いまや人口に膾炙した言葉である。それは、外来語であるにもかかわらず、金融や保険などの経済分野から地球温暖化に代表される環境問題、あるいは日常会話の中にいたるまで幅広く用いられる(任意に一般化される)言葉となっている。そうであるがゆえに、リスク概念がどのような対象や事象と結びつけられ語られるのか、リスク概念の意味をそのつど確認する必要がある。

 とりわけ、東京電力福島第一原子力発電所の事故(以下、「原発事故」とする)やそれに付随する事象に対するリスクの語りをみても、それが意味するところを正確に把握することは容易ではない。たとえば、「津波のリスク」と「避難のリスク」とでは、リスクに接続される事象の性質や状況が異なる。「津波」は地震に起因する自然現象である一方、「避難」は原発故事に起因する人為現象であるからだ。にもかかわらず、一様にリスクという尺度が適用される。つまり、特定のある事象が単にリスク概念に接続されるのではなく、本来、異質で固有の脈絡をもつと考えられる事象が、リスクという尺度の元に一元化されるのである。

 このようなリスクの先鋭化、普遍化にともなう、リスクの脱文脈化は、逆説的にリスクの帰属・帰責先をめぐって、リスクを争点化・主題化していく社会を招来する。いわゆる、ウルリッヒ・ベックによる「危険社会」(1986)、あるいは「世界リスク社会」(1999)という時代分析はこうした状況に対応した概念である。

 しかし、今日の原発事故や低線量被曝の定量的リスク評価に依拠するリスク論の立場からは、リスクを積極的に争点化・主題化していく姿勢よりも、むしろ脱政治化・非政治化していく傾向を強くもっている。たとえば、原発事故によって「避難」をすることが望ましい状況だとして、それでもなお故郷を離れることができず福島に止まった場合、そのような人びとは「避難のリスク」ではなく「放射線被爆のリスク」を自発的に選択したものとみなされる。つまり、本来、社会的な問題(強制的な、あるいは構造化された選択肢)と考えられるものが、リスク言説が媒介することで、個人的な選択の問題(自由な選択肢)へと転換されるのである。こうした状況を成り立たせ、正当化する役割を果たしているのが、本稿が問題とするリスク管理の私事化論なのである。

 本稿の目的は、原発事故やそれに不随する事象に対する多くのリスクの語りの中でも、リスク管理の私事化論の検討を通じて、それがリスクの選択の受容を促進する機能を果たしていることを明らかにすることである。さしあたり、本稿では、リスク管理の私事化論を以下の4つの特徴を備えた言説とする。それは、以下のような論理構成をとる。

 (a)日本人は、リスク過敏症であり、リスク管理を苦手とする民族である。
 (b)そのためか、日本人は、ゼロリスク社会という幻想(神話)を抱いている。
 (c)しかし、リスクはゼロにならないので、リスクを見定め、比較し選択する必要がある。
 (d)それが死を前提とした人の生き方である。

 本稿では、原発事故以後に発せられた具体的なリスク言説をいくつか検討しながら、上記のような内容と論理構成をもつリスク管理の私事化論の問題について、「批判的リスク論」1の観点から考えてみたい。

 ところで、原子力業界では、1995年の「もんじゅ」の事故以来、「原子力にもリスクがある」ことを公言してきた。言うまでもなく、それ以前の主張は「原子力にはリスクはない」というものであり、したがって、「ゼロリスク」の幻想を抱いてきたのは一般公衆ではなかったはずだ。「原子力にはリスクはない」、だから「原発を受け入れよう」という従来の主張は、「原子力にもリスクがある」、でも「どんなものにもリスクはある」、だからそれは「リスクの選択の問題」で、日本は「原子力のリスクを選んだにすぎないのだ」というのが現在の原発推進の理屈だとすると、リスクを否定しようが認めようが、どちらにせよリスク論は原発の推進を正当化するように機能する。では、この隘路を突破するにはどうすればよいのだろうか。これを考えていくためにまず、リスク概念の意味の広がりを、その歴史的出自に着目しながら確認していこう。

2 リスクの主体/リスクの近代

 リスクという概念は、近世西洋における固有の経験と思惟をその歴史的起源としている。大航海(海上貿易)とルネッサンスである。大航海とは、地理上の探検、未知の土地や社会との遭遇であると同時に、貿易ルート(航海路)の発見である。貿易というのは当事者双方が利益を得るプロセスである。一方で、貿易は危険な商売でもあった。遠方の地域と交易する商人たちは、航海の途中で嵐に巻き込まれたり海賊に襲われたりする可能性があるからだ。また、取引が増大すればするほど、貿易によって得られる利益は大きくなるが、同時に不慮の出来事によって損失を被る危険性も大きくなる。この利益と損失の両方の可能性が併存する状況で、それでもあえて損失を被る可能性を引き受け、利益を求めて積極的に航海に乗り出す選択をすることが、「リスクを冒す」という行為の原初的な経験となった。危険(danger)や冒険、あるいは不慮の出来事などの言葉がすでにあったにもかかわらず、大航海の領域でリスクという言葉が新たに使われ出したのには、こうした状況があったからである。

 社会がこのリスクの考え方をその文化の中に共有しうるようになるには、現在という地点ではなく、未来に向けての行動様式の中に変革が生まれてこなければならない。つまり、人間が未来をつくることを前提に据えて、はじめてリスクは意味を持つ。それは、慣習や伝統など過去のありようが現在の行為を決定する社会から(伝統社会)、未来を予想しその未来の地点から現在の行為を決定する社会(リスク社会)への移行である。

 ルネッサンス時代に至るまで、人びとは未来について、それは宿命であり運命であり神の意志であると考えていた。つまり、未来とは人間の手の届かない領域に属する対象であった。しかし、ルネッサンス運動は「神中心から人間(理性)中心へ」の考え方の転回をもたらし、人間の主体性を尊重する精神を醸成した。その結果、人間の未来に向けての行動様式も変化した。未来は人間にとってままならない受動的な厄災ではなく、能動的にコミットするべき好機(チャンス)へと変貌したのである。

 すなわち、人間の未来は神の意志によるものではなく、人間の自由意思によって切り開く無限の可能性に満ち溢れたものであるとする認識の転換をもたらしたのである。それは同時に、未来は予測可能であり、したがって、コントロール可能であるという考え方(確信)をも生みだした。優れた航海士、あるいは成功した実業家は、単に冒険心に富み、革新的な精神の持ち主であっただけでなく、非凡な予測者でもあったのである。このようにリスクは、人間が主体となって未来を現在の統制下に置くという企てを意味する概念としても登場したのである。

 このことからも明らかなように、リスクは、避けるべき否定的な意味としての「危険」(danger)とは明確に区別される。リスク概念を特徴づけるのは、脅威や損害の可能性としてのみでなく、好機としても、つまり積極的な意味を持つものとしても捉えられるところにある。リスク(risk)の語源が、イタリア語(ラテン語)のリジカーレ(risicare)であり、「(悪い事象が起こる可能性を覚悟の上で)勇気をもって試みる」という意味からも、そのことは確認できる。

3 〈リスク/危険〉の区別

 先に見たように、リスクと危険とは概念として明確に区別されるが、一般に、リスクも危険も日常用語としてはほとんど同じ意味内容であろう。実のところ、こうした傾向は、ベックの用いるリスク概念についても認めることができる。ベックの用いるリスク概念は、主に科学技術の帰結に焦点が当てられており、それがもたらす脅威、というような意味へと還元されている。つまり、ある事象(技術や物質、出来事)に備わる損害をもたらしうる属性そのものとしてリスク概念を組み立てているのである。これは、リスクをハザード(hazard:物質の有害性)と同一視する見方である。

 また、リスクをハザードと同一視する見方は、リスクを安全との反対概念として捉える思考法を前提している。もちろん、この図式がなければ、各種のリスク規制政策は行えない。しかし、リスクと安全とを区別するからといって、リスクのない絶対的な安全=ゼロリスクなどという表象が、この区別に含意されているわけではない。むしろ、絶対的な安全などありえないという想定のもとで、このリスク概念は利用される。そうであるからこそ、「リスクを受け入れよう」というリスク管理の私事化論が可能となる。さらに、この区別によって、リスクの受け入れに反対を表明しようとすれば、「ゼロリスクはありえない」として非難される。後に確認するように、中西準子の「環境リスク論」は、リスクを安全との対立項として関係づけて組み立てているのである。

 これに対し、ニクラス・ルーマンは、リスクと危険とを概念として明確に区別する。ルーマンは、リスクを「決定依存性」という近代社会の基本的な構造的特徴と結びつけ、あらゆる決定に内在する一般的な現象として捉える。つまり、リスクは人間の行為の中にこそ存在するという見方である。たとえば、ある損害を引き起こす可能性のある事象がリスクとして語られるとき、私たちはその背後に誰かの決定を読み取ろうとする(帰属)。この帰属の仕方を、〈リスク/危険〉の区別を用いることによって把握(観察)しようとするのである。

 ルーマンによれば、リスクとは将来の損害可能性に関して、起こりうる損害が自己(個人や社会システム)の決定(何もしないこともその一つの決定となる)の帰結と見なされ、当該決定に帰属される場合をいう。他方、起こりうる損害が自己以外の外部からもたらされるものだと見なされ、外部の誰か、あるいは、何かに帰責される場合、その将来的な損害可能性は危険とされる。つまり、〈リスク/危険〉の区別が焦点化するのは、「損害の原因がどこに帰属されるか」ということである。たとえば、現在住んでいる建物が耐震基準を満たさない物件であることを知っていて、引っ越すことが可能であるにもかかわらずあえてそこにとどまり、ありうべき損害が自分の決定に帰属できるなら、それはリスクである。他方、建物の倒壊によって被る損害を、地震が起こったという自然現象に帰するのなら、それは危険である。

 このような説明は、〈リスク/危険〉の区別は、単に決定の主体が能動的であるか受動的であるかという態度や構えに対応しているような印象をあたえるかもしれないが、しかし、自分の選択によって生じる損害だとしても、それを危険として構成することは十分に可能である。たとえば、建物の倒壊による損害の可能性を、当該物件の家主による耐震基準の管理不行き届きに帰属させ、危険としてコミュニケーションすることもありうる。あるいは逆に、自分としては突然の危険のつもりでいても、その後のコミュニケーションの過程でのなかで、社会的に「それはあなたの選択のせいである」というかたちでリスクとして構成するなどという事態もありうるのである。本稿が主題化するのも、まさにこうした事態である。

 このようにルーマンの〈リスク/危険〉の区別は、近代社会におけるリスク現象(帰属先)の観察を可能にする。もとより、リスク現象の顕在化は、選択肢の増大、あるいは決定の潜勢力の拡大という事態に対応したものである。その結果、従来、危険として意味づけられていたものが、ますますリスクとして定義し直されるのである。すなわち、ある損害の帰結を自然現象や神の意志にではなく、人間の自由な行為の選択(決定)に帰属するのである。それは同時に、人間に対する帰責が問われる事象の範囲が拡大していくことを意味する。そして、人間同士の帰責問題を生じさせるのである。つまり、利益を求めてリスクを冒す「決定者」と、他者の下した決定による損害を被る「被影響者」との間に生じるコンフリクトである。こうして、リスク(何がリスクかをめぐって)そのものが社会的な争点となるのである。

 以上、ルーマンは、「リスク/危険」の区別を導入することによって、「リスク/安全」の区別が導く定量的なリスク評価に基づく議論に回収されない可能性を拓こうと試みていることを確認してきた。つまり、リスクを再政治化し、「被影響者」を絶えず可視化することの意味を問おうとしているのである。

4 「環境リスク論」の構え

 それでは、リスク管理の私事化論の問題に具体的に迫っていこう。ここで参照するのは、中西準子が提案している環境リスク論である。これは環境問題に対して一般的に適用できる、説得的な理論である。しかし、この環境リスク論は、すでに述べてきたような意味の広がりをもつリスクの問題を、いかに合理的に管理するのか、という技術的・政策的観点から切り詰め矮小化してしまう傾向をもっている。つまり、社会的、政治的、文化的、倫理的な諸要素を考慮しないのである。

 まずは、中西が、何をリスクとして構成しているのか、その枠組みから確認していこう。

 環境リスクとは、「環境への危険度の定量的な表現」で、「どうしても避けたい環境への影響の起こる確率」である。「どうしても避けたいこと」を「がんになること」と仮定すると、発がん確率が発がんリスクになり、その化学物質(あるいは、放射性物質)のリスクになる。ただし、この「どうしても避けたい」ことを、「がんになること」と仮定したとしても、誰もが納得する普遍的な「避けたいこと」であるとは限らない。そこで中西は、「人の死」を「どうしても避けたいこと」に設定する。つまり、何らかの政策や行動にともなうリスクを「それが人の死の確率をどのくらい高めたのか」「人の寿命をどれくらい短縮したか」(これを「損失余命」という)という尺度で測ることを提案する。

 ここで、重要なのは、中西は単に危険性をリスクと言い換えたわけではなく、リスクと安全という二分法の考え方を採用していることである。つまり、中西のいう環境リスク論には絶対安全(=ゼロリスク)という領域がない。絶対安全という領域がないとすれば、「リスクをゼロにするという考え方では対処できず、リスクとどうつきあうかという考え方に移行せざるを得な」くなる。リスクとつきあうとは、ある程度のリスクは許容するという立場に立つことであり、ここから、リスクをどう管理するかという課題も浮上する。

 中西のリスク管理の原則は、リスク・ベネフィット原則である。言うまでもなく、「リスクは必ずなんらかのベネフィットをともなっているものである」。たとえば、原子力発電所の再稼働は、事故が起こる確率やそれにともなう損害の可能性を高めるというリスクはあるが、同時に、電力の供給によって人びとの生活を快適にするというベネフィットをもたらす。このリスクに対するベネフィットの値(ベネフィット/リスクの値)が大きければ、それは、より望ましい決定や政策となる。こうして、合理的な決定や政策を実現できる、というわけである。

 では、このような中西によるリスク論の構え、さらにはリスク管理原則に基づけば、原発事故以後の状況は、どのようなものとして捉えられるのだろうか。

5 原発事故とリスク管理の私事化論

 中西は、原発事故の後に、『リスクと向きあう―福島原発事故以後』(中央公論社、2012年)と『原発事故と放射線のリスク学』(日本評論社、2014年)の二冊を上梓している。これらの著書の中で、文字通り「リスクと向きあう」ための構えとその方法としてリスク・オレードオフ(あるリスクを減らすと、別のリスクが増えること)について論じている。中西は、「リスクと向きあう」とは、「この世にあるさまざまなリスクについて、目をそらさずに、きちんと正視して、比較しながら、社会や個人の進むべき道をできるだけ合理的に選ぼうということです」としたうえで、「放射線のリスク」について、次のように述べている。

 あるリスクを減らせば、別のリスクが増える。誰しも日常生活では、二つか三つのリスクを比べながら一定のリスクを受け入れつつ生活しています。しかし、放射線の話になると、リスクはゼロであるべきという議論を耳にします。

 低線量のリスクをめぐる議論では、放射線の被ばく量が一定値(しきい値)以下では、がんによる死亡が増加したと証明できないので、この値以下なら安全だという主張と、どんなに被ばく量が少なくとも危険だという主張が対立しています。

 でも両方とも一定のリスクはあるのです。前者の立場に立っても、しきい値以下でも実はリスクがあるし、放射線のリスクをゼロにしたら、別のリスクが生じるのです。

 そのリスクの大きさを明らかにし、これ以上のリスクはダメだけど、これ以下なら当面受け入れる、その理由はこうですという議論をすべきなのです。総てのリスクをゼロにすることは無理だし、がんがなくとも、人はつねに死のリスクにさらされていることを忘れてはならないのです。これが寿命というものです(中西2012:43-44)。

 そして、「放射線のリスク」と「移住のリスク」とを比較考量し、これらを「リスク・トレードオフ」の問題として構成する。「移住のリスク」とは、かつて住んでいたところを離れて生活することによる苦痛、たとえば、仕事の喪失、家族の離散(別居など)、生活環境の変化など、避難にともなう苦痛のことである。中西は、この「移住のリスク」が、統計的にみて、つまり「損失余命」という観点からみた場合、「放射線のリスク」より大きいと評価し、できるだけリスクの小さい道を選んでほしいと提案する。つまり、「放射線のリスク」を受け入れ福島に「帰還」することがより望ましいと結論する。ただし、「移住のリスク」は、各家族によって全く状況が異なる(あるいは、個人差が大きい)ため、個人の決定(「帰還」か「移住」か)を尊重することが重要だとも述べている。

 こうした中西の主張はいくつかの問題を抱えている。

 第一に、中西はリスク概念を、対象世界のある事象(放射性物質や移住など)の属性とのみ関連づけ定義する。つまり、ここでのリスクは、「損害」可能性としてのみ把握され、そこに本来ともなうべき「利益」は捨象されてしまっている。だとすれば、もはや人びとが「リスクを冒す」動機は存在しないはずだが、中西は、「リスク・ベネフィット原則」に代えて「リスク・トレードオフ」というリスク管理の原則を導入することで、「利益」がないにもかかわらず「リスクを自発的に選択する」主体という物語を作り上げる。リスクの「被影響者」としての強制的な選択が、個人の決定の尊重という物語へと変換され、そうした決定を余儀なくされる原因への視点を覆い隠してしまうのである。

 第二は、先ほども確認したとおり、中西の環境リスク論が「リスク/安全」の区別を前提しているため、「リスクの選択」を積極的に促す主張となっていることである。「リスクのない絶対的な安全はない」という事実言明から、「決定に不随するリスクは甘受するべきである」という価値判断が無媒介に導き出されるのである。

 第三に、中西はルーマンの述べるところの「リスク/危険」の区別を概念として使い分けていない。一見、妥当のように思える「放射線のリスク」という構成(操作的定義)も、ルーマンのいう「リスク/危険」の区別の観点から捉えかえせばどうだろうか。すなわち、「被影響者」の立場から、放射線被曝という状況がもたらされた背景にまで目を転じれば、放射線被曝の問題をリスクではなく危険として再構成することは可能である。たとえば、放射線被曝することを知りつつも、避難先から福島へと「帰還」する場合、その被曝による損害の可能性を、放射線被曝する状況を作り出した東京電力の津波対策の不備などに帰属させ、危険として再政治化することはありうるはずである。

 「移住のリスク」についても同様のことが言える。たとえば、2011年6月に計画的避難区域に指定された川俣町から福島市に避難した渡辺まり子さん(当時58歳)の自殺をめぐる損害賠償訴訟で、2014年8月26日の福島地裁による「原発事故がうつ状態と自殺の原因となった」という判決は、「移住のリスク」という構成からは導くことが困難な判決内容である。つまり、移住という選択を余儀なくさせた原発事故に原因を帰属させているのである。

 もちろん、中西のリスク概念とルーマンのそれとは照準するものが異なる。しかし、中西の依拠する〈リスク/安全〉の形式では、「リスクと向きあう」ための構えが強調され、結果として、帰属先が一義的に個人の選択へと収斂されてしまうのである。

 いずれにせよ、放射線被曝による健康影響と避難(移住)にともなうさまざまな影響とをリスクとして構成する中西の環境リスク論は、原発事故による「被影響者」の存在をますます不可視化させ、「被影響者」が自らの見解を政治的な交渉の場に持ち込み、リスクを再政治化していく機会を奪っていく。「避難した住民の帰還を妨げている大きな原因の一つは、子どもへの影響に対する不安と怖れなど、放射線リスクの理解の難しさである」とする日本学術会議の報告2や、同じく人びとの不安を対象として展開されている「リスク・コミュニケーション」3が、まさにそうした機会を「被影響者」から剝奪しているのである。

 中西の環境リスク論は、「放射線のリスク」や「移住のリスク」を、諸個人の生き方の問題に帰属し、そうしたリスクの社会構造に帰属されるべき側面を覆い隠してしまう。こうしたリスク管理の私事化論の典型として、中西準子と上野千鶴子との対談「リスクを選んで生きる」からの一節を引用しよう。

中西 年間100ミリシーベルト以下であっても、放射能には一定のリスクがあります。問題は100ミリシーベルト以下だったらいいのではなく、リスクを認めなければならないような場合があるということです。
上野 閾値のないリスクの問題ですね。
中西 かつては、化学物質に対して・・・・・・・・リスク・・・ゼロ・・できたわけですが・・・・・・・・そういう神話は消えてしまった・・・・・・・・・・・・・・。少ない量でも測定されるし、小さな影響もわかるようになってきた。私たちが直面している問題は・・・・・・・・・・・・・、「リスクはあるが・・・・・・・選びましょう・・・・・・ということです・・・・・・・。私から言わせれば、これは「人生」。われわれの生きる道であり、生きていかなければならない道です。なぜ、それを選ぶのか。それは、選ばないともっと困ったことが起きるからです。リスクを選んで生きよう・・・・・・・・・・・、なのです。
上野 その通りだと思います。福島に住みつづけている人たちは・・・・・・・・・・・・・・・まさに・・・有害だとわっているけれど地元の日常生活の継続を選ぶ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・という選択をしている人たちです・・・・・・・・・・・・・・・。…略…。
…略…
上野 …略…最後に、いろんな情報が飛び交っているなかで、どうしていいか困っていらっしゃる汚染地域の方たちに、メッセージを送っていただけますか。
中西 落ち着いてリスクを選んでください、ということでしょうか。リスクを避ける、と考えてしまうと、結局リスクを見ないことになってしまう。だから「リスクを選ぶ」。ちょっと嫌な言い方になりますが、「どのリスクが自分には合っているのかな」と考えると、いろんなリスクに目がいくと思います。
上野 納得のいくお答えですね。リスクはなくならない。
中西 なくならない。
上野 だから相対的なリスクを選べ、ということですね。しかし、一つ間違えれば、中西さんは政府の回し者、と見られるかも。
中西 いつもそう言われています(笑)。
上野 ずっと行政と闘ってきた闘志だったのに(笑)。情報と選択肢を提供するのは専門家と政治の責任で・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あとは自分の運命を自分で選ぶという自己決定・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。つまり、情報公開と民主主義が中西さんのお考えです。私も同感です。それが可能な市民的力量を私たちもつけなければなりません(中西2014:290-297)。

(傍点、筆者)


 上の記事で、発言者の専門性を反映し、また現実に対応していると考えられる箇所はあるだろうか。というのも、中西はたしかに化学物質のリスク評価の専門家であるが、「かつては、化学物質に対して『リスク・ゼロ』できたわけですが、そういう神話は消えてしまった」という部分は、端的に誤りである。

 まず、「ゼロリスク」という神話が人びとの間に存在するという考え方自体が幻想である。存在しないものが崩壊することはありえないのだから、原発事故により「ゼロリスク」神話が崩壊することもありえない。

 次に、リスクを選択することが人生における不可避の道として提示されるという物語は、たしかに近代的主体のエートスと共鳴するが、しかし、そのような強固で自律的な主体はいったいどこに存在しているのだろうかという素朴な疑問を生じさせる。加えて、リスクを選択することが人生であるという飛躍した一般論は、それぞれが持つ固有の文脈を抹消してしまう。

 こうした中西の見解(文脈・前提の想像)は、実のところエリートのテクノラートの主張に共通している。国民の「リスク・フォビア」は、科学技術教育の不徹底が原因であると。島薗進は、日本における放射線に関する「安全」論の言説を検討するなかで、「リスク認識が劣った日本人」という言説の存在を確認する。「リスクを確率論的に捉えること、リスク比較をすることができない国民およびメディアの側に問題がある」という認識は、放射線健康影響の専門家に広く支持された考え方なのである。

 自分たちは熟したリスク認識をすることができるが、市民はリスク認識に大きな欠陥を抱えている、ゼロリスク社会の幻想にふけり、リスクがないのが当然で安全はタダだと勘違いしている。適切にリスクを認識すれば、この程度の放射線汚染は耐えることができる、と。…「日本人のリスク認識」について深く理解しようとすれば、人文学や社会科学の広い知識と洞察力が必要となるだろう。そういう領域にやすやすと踏み込む医学者や放射線影響学者の知的冒険のリスクを問うてもよいかもしれない(島薗2013:186)。

6 リスク管理の私事化論を構造化するもの

 本稿では、中西準子の環境リスク論に典型的に見られるようなリスク管理の私事化論の検討を通して、それがリスクの選択の受容を促進する機能を果たしていることを明らかにしてきた。そこでは、「リスクを選択する」というフレーズを繰り返し強調していることがわかる。その含意は、私たちは自発的にリスクを選択しているのであって、けっして強制的なあるいは構造化された選択を迫られているわけではない、ということにある。つまり、リスク管理の私事化論は、私たちを強固な責任主体として前提し、さらに、その主体の「自由な選択可能性」をも前提しているのである。

 しかし、「リスクを選択する」ことを強いられている人びとは、この選択を可能にするための基礎的条件を奪われており、それゆえに選択の自由がなく、リスクを自己管理するという責任主体としての前提を欠いているのである。つまり、負うことのできないはずの責任を個人に負わせることによって、本来負うべきはずの責任主体を不可視化するのである。

 こうした事態は、美馬達哉(2012)の描く「リスク社会」とも共鳴する。美馬は、原発事故以後のリスク社会を「安全性の制度化であるケインズ主義的福祉国家としてのリスク社会から、選択の自由と市場での競争に伴うリスクを積極的に価値づけるネオリベラル的なリスク社会への変容として特徴付け」る。つまり、元来、福祉国家においては、リスクを社会的なものとして保険制度のもとに包摂し対応していた。ところが、新自由主義を携えたポスト福祉国家においては、民間機能の強靭化と政府機能の弱体化という、いわゆる「大きな政府」から「小さな政府」への移行にともなって、リスクの帰属先も「社会」から「個人」へと変容を余儀なくされるようになった。このようにして、新自由主義思想がリスク管理の私事化論の素地を作りだしたと考えることができるのである。

1 「批判的リスク論」という位置づけについては、小松丈晃(2003)を参照。「批判的リスク論」には、小松の言及する「リスクの社会学」のほかに、「カタストロフィー論」がある。この論点について筆者(2015)は別稿で論じている。
2 日本学術会議 臨床医学委員会 放射線防護・リスクマネジメント分科会、報告「子どもの放射線被ばくの影響と今後の課題―現在の科学的知見を福島で生かすために」2017年9月1日
3 影浦峡「あれから5年、リスクコミュニケーションが私たちから奪うもの」『現代思想』青土社、vol44-7、2016年、pp170-185

参考文献

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=佐和隆光訳『暴走する世界―グローバリゼーションは何をどう変えるのか』ダイヤモンド社、2001年
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=東廉・伊藤美登里訳『危険社会―新しい近代への道』法政大学出版局、1998年
Ulrich Beck. World Risk Society, Blackwell Publish, 1999
=山本啓訳『世界リスク社会』法政大学出版局、2014年
小松丈晃『リスク論のルーマン』勁草書房、2003年
佐藤健太郎『ゼロリスク社会の罠』光文社新書、2012年
島薗進『つくられた放射線「安全」論』河出書房新社、2013年
中西準子『リスクと向きあう』中央公論新社、2012年
中西準子『原発事故と放射線のリスク学』日本評論社、2014年
Niklas Luhmann. Soziologie des Risikos, Walter de Gruyter, 1991
=小松丈晃訳『リスクの社会学』新泉社、2014年
Peter Bernstein. Against the Gods: The Remarkable Story of Risk. New York: John Wiley & Sons, 1996
=青山護訳『リスク―神々への反逆』日経ビジネス人文庫、2001年
藤垣裕子『科学技術社会論の技法』東京大学出版会、2005年
美馬達哉「リスク社会1986/2011」『現代思想』青土社、vol.40-4、2012年、pp238-245
山口節郎『現代社会のゆらぎとリスク』新曜社、2002年
横山道史「『リスク』という物語に馴化させられる社会」金井淑子・竹内聖一編『ケアの始まる場所』ナカニシヤ出版、2015年、pp169-193