フクシマとサガミハラが投げかけるもの―「生産性」の2010年代、事件後に人間の尊厳について語るということ―/After Fukushima and Sagamihara, The Oration on the Dignity of Modern Man


所収:『立正大学哲学会紀要』第15号(2020年3月発行)

米 田 祐 介
MAITA, Yusuke

「あかぎさん、にんげんといちがいにいっても、大別して、自己を意識する
ことのできない不幸な存在と自己を意識する存在のふたつがありますよね」
(辺見庸『月』より)

【要旨】
 本発表では、フクシマ(2011年)とサガミハラ(2016年)の〈はざま〉で開始された「新型出生前診断」(2013年)をめぐる生-権力/構造的暴力の磁場に光をあてる。近年高らかに掲げられている「共生」の理念とは裏腹に、二つの事件の負荷がはからずも炙り出したのは私たちの社会空間にある「内なる優生思想」であり、「新型」はこれを助長するものである。
 フクシマでは、放射能によって障害児が産まれることを危惧し人しれず中絶を選んだ、いや選ばされた、、、、、女/母たちがいた。サガミハラでもまた、障害者は「生きるに値しない」というUの主張に賛同・同調する声があったのも周知の事実であり、この二つの事件の〈重なり〉として「内なる優生思想」を指定しうる。いつの時代も力=権力(power)の働きかけは重層・複合的だ。近代資本制システムが要請する効率と光の速度(=「生産性」)に私たちの自然的身体は取り込まれ、いまや生の〈はじまり〉が、すなわち偶然(=自然)の舞台であったはずの〈出産〉が、医学的分類による「選択」(=必然)の場となりつつある。もはや、力(power)に抗して「選ばないことを選ぶ」ことは一層の困難を強いられ、「障害」という一般的名辞の内圧/暴力によっていたるところに地図にない「線」が引かれることになる時代を迎えるだろう。〈いのち〉の係留点としての女性身体は深く、深く、傷つけられようとしている。
 それでは如何にして、線引きの暴力に対し抗いは可能だろうか。そもそも、“誰”が線を引いているのか。二つの事件の〈重なり〉が示すのは力=権力(power)と共犯関係にある〈わたし〉である。では、なぜ〈わたし〉は線を引かなければならないのか。もっといえば、線引きの“構え”による暴力(=広義の優生思想)を発動しなければ、なぜ〈わたし〉は〈わたし〉を維持できないのであろうか(脅迫的な「正常さ」/「役に立つこと」の証明)。そこには、「障害」はもとより、非正規的な生や労働、男女のジェンダー的な問題等、ひいては“生き難さ”(=生存圏/自己肯定感)をめぐる問題が重層的に深く絡まりあっているはずである。
 本発表は、旧来人間存在の基礎単位とされてきた――あるいはケアの単位――近代的な「個人individual」という単位の前提に懐疑をむけることを通じてシステム(=権力)に取り込まれつつもそれを“内破”する〈わたし〉の“構え”の再構成を模索せんとするものである。

はじめに―「生産性」の2010年代

 本題に先立って、フクシマの文脈につらなるものとしてまず「狭い意味での優生」をめぐる近年の話題から少しふりかえってみたいと思います。現在(2019年12月)の状況として、昨年2018年の1月のほぼ同時期に、一方では、新型出生前診断NIPT の緩和、拡大、一般診療化という流れがあって、他方で、旧優生保護法下における強制不妊の提訴が宮城県でありました。そしていま、救済法の成立というねじれた状況にあるわけですが、ともあれ5月には仙台地裁で判決がでたと。旧優生保護法は違憲であるとしながらも、国は責任を免れる。これもまたねじれた状況にあり、時間は前後しますが、こうしたなんといいましょうか日本の放置しつづけてきたひずみや矛盾を示すかのように函館で日本初のロングフルライフ訴訟もあったのではないかと思います。さらに時間をさかのぼれば、2010年代のはじまりとしてのフクシマがありました。原発事故によるとてつもない負荷は放射能でもって障害児が産まれるかもしれないという声のもと、はからずも私たちのいわゆる「内なる優生思想」を炙りだしたのではないかと思うのですが、優生の土壌は長らく日本にはありました。それがちょうど2010年代に加速度的に可視化されてきたように思われます。

 こうした狭い意味での優生をめぐる状況を取り囲むといいますか、あるいは覆うといったらよいでしょうか、いわば同心円状の拡がりのうちにサガミハラも位置づけることができると思うのですが、他方で、「生産性」に象徴される問いとしてたとえばサガミハラ後には、杉田水脈議員の「LGBT には生産性がない」といった発言や、福生市での人工透析の中止の問題、川崎市登戸の事件そして四日後に練馬で起こったひきこもりの息子を父親が殺害するといった事件がありました。発表の副題にも書かせていただきましたが、まさに狭い意味での優生も含めて「生産性」という言葉のうちに、これまで別々の、別個の文脈であったものが、地続きのものとして可視化されていく光景が2010年代に拡がっていったように思われます。こうしたことを念頭においたうえで、発表にはいっていきたいと思います。問題意識と方法論については要旨に書かせていただいた通りでございます。

Ⅰ フクシマとサガミハラが重なる〈場〉―炙り出される「内なる優生思想」
1)フクシマ(2011.3.11・12)

 まず、2011年3月、フクシマで原発事故がおこった際、いまではほとんど顧みられなくなった初期での事例ですが、ある福島市の病院に取材にはいったAERA の記事によれば、妊娠初期の女性はおしなべて放射能による先天異常や流産の可能性を口にしたといいます。たとえば、妊娠8週だったある女性は、婚約者から、胎児が被曝して先天異常児が生まれるかもしれないという理由で、中絶を強く求められて病院にきたそうなのですが、医師はそのつど、いまの放射線量では大丈夫だと説明するそうなのですが、どうしても中絶したい、あるいはしなければならない、と言われると、医師はどうしても産めとは言えない。こういうことが、この病院に限らず、けっこうあった(1)。ちなみに、1986年、チェルノブイリの原発事故によって、いわゆる「死の灰」の7割が落とされたベラルーシでは、先天異常をもって生まれた赤ちゃんの割合が、事故後の5年後の91年には1000人あたり18.2人と、事故前の1.5倍になったという報告もあります。中絶件数も増え、正確な件数は把握できておりませんが、西ヨーロッパ全体で、10~20万ともいわれております(2)。もとよりこの事実の真偽のほどについて私の力量では判断できないのですが、少なくともこういった中絶に関する証言はなかなか公にはならないということは言えるかと思います。日本ではおそらく唯一、かなり立ち入った報告として、本多創史氏による報告がありますので少しみていきたいと思います。

 いわき市のある民間団体に寄せられた相談事例によれば、中絶するか否かが69件、子どもの障害が不安だが中絶したくない21件、中絶できない時期に至っており仮に障害児が生まれたらどうすれば良いのかが18件、「不安」の強い夫や義父母から中絶を勧められている16件、などが相談として寄せられたそうですが、いずれも障害児や先天異常児が生まれてくるのではないか、という「不安」を示していると思います。実際に中絶した人少なくとも18人ということが確認されていますが、このうち、自らの意思で中絶した人が5名、周囲と話しあった結果中絶した人が4名、夫や義父母から勧められて中絶した人が9名であったそうです(3)

 ある場面で、大橋由香子氏が、〈核災害〉による中絶を危惧して、胎児への中絶が推奨された水俣を引き合いに出して、「水俣が原発事故になりつつあるかもしれない」と述べたことは非常に示唆的ですが(4)、こんかい行政指導は行われていませんので、非強制の、つまり自己選択として行われたことになりますがそれではそれは許容されうる女性の自己決定権の範囲内か、というひとつの倫理的な問いが浮かんでくるかと思いますが、これについて、立岩真也氏の議論を参照軸として少し考えてみたいと思います。

 非常に大雑把な解釈になりますが、一義的には、胎児が、「何か」から「私でない存在」、すなわち〈他者〉になっていく過程を感受することができるのは、換言すれば、〈他者〉の出現を最初に知るのは妊娠している女性です。胎児を〈他者〉としてあらしめるかどうかというのは、その胎児を身のうちに孕んでいる女性に委ねるしかない。こうした了解のもとで、「だれもがその生命を奪われてはならない存在として認める時点以前の期間」においては、〈他者〉を侵害しないことを前提として、自己決定を女性に委ね、権利として尊重できる。しかし、出生前診断では、この決定が他者の性質、言い換えれば、どのような存在か、存在の“属性”を前提にして決定する行いである以上、それは他者の存在を想定しつつ、他者を決定することであり、他者が他者であることを奪い取る。それゆえ、自己決定権とはいえない、リプロダクティヴ・ライツには含まれない、という解釈です(5)

 事例は、たしかに出生前診断後、障害の有無を確認した上で中絶しているわけではありません。けれども、生まれて来る子をその“属性”(の可能性)に基づき選ぼうとしているから、その時点で胎児はすでに他者としてみなされています。つまり、胎児を他者とみなしたうえでそのありようを制御しようとしており、自己決定権としては正当化しえない、限りなく出生前診断を経た後の中絶に近いということがいえると思いますが、しかし、原発事故によって、女性たちは「選ばないことを選ぶ」以前に、否応なく生まれてくる子の性質の可能性、その存在の“属性”の可能性を―じっさいに障害をもった赤ちゃんが生まれてくるかどうかは別としても―彼女たちは切実に観念しているという意味で、予め知ってしまっている、、、、、、、、、、、否応なく知らされている、、、、、、、、、、、。これは、〈核災害〉による「無実の場」への侵襲であって、究極の暴力ともいえると思います。じっさい、このいわき市の団体によれば、誰にも相談できず中絶してしまい自分で自分を追いつめている人、あるいは中絶を選択肢に入れたことで自分で自分を責めている人が多くいたといいます(6)

 ここで、この〈核災害〉の暴力を通じて私が問題/課題化してみたいと思うことは、これまでみてきた「不安」の内実がかりに、障害者は不幸であり、生まれない方がよいという価値規範を前提としているのならば、〈核災害〉による福島の女性へのとてつもない「負荷」は、はからずもマジョリティの「内なる優生思想」を炙り出しているのではないか、ということです。

 じっさい、いわゆるかつて言われた100ミリシーベルト安全言説のその健康概念の内実には、それ以下であれば、障害をもった子どもは生まれてこないがゆえに、、、安心してよい、ということが前提されておりました。ここにマジョリティとの共犯関係が成立していることを読解することができると思うのですが、こうした価値規範は、じつは反原発・脱原発を主張する人たちにも、暗に前提されていました。たとえば、米津知子氏は「反原発の理由に『障害児の出生』が繰り返しいわれるとき、障害にまつわる負のイメージが人びとに再確認され、それが障害者排除の実態を強め、差別を深めるのではないか」(7)と。また野崎泰伸氏は、「このような反原発論には、障害者に対する嫌悪感、その中核としての優生思想と、障害のない子どもを女性に期待するという、女性に対する圧力とが前提とされているのではないか」(8)と述べておりますが、こうした点には、もっと注意がむけられるべきではないかと私も思っております。

(フクシマのことについての詳細については、拙稿「〈核災〉と〈いのち〉の選別」金井淑子・竹内聖一編『ケアの始まる場所―哲学・倫理学・社会学・教育学からの11章』ナカニシヤ出版、2015年、をご参照いただければと思います。)

2)サガミハラ(2016.7.26)

 つづいて、サガミハラについてみていきたいのですが、たとえばかつて起こった秋葉原での無差別殺人事件と違って、選択的、、、選別的、、、殺人であった、人間の“属性”に基づいた殺人であったということに一つ目の特徴があります。これは人間の肉体的生命を奪う「生物学的殺人」のみならず、人間の尊厳や生存の意味そのものを否定する「実存的殺人」であったため、二重の意味での殺人だったと言えるでしょう。この時期、ふだん私たちには聞き慣れなかった「ヘイトクライム」(9)という言葉もにわかにクローズアップされたわけですが、報道では、むしろ(当時)容疑者の異常性が強調され、容疑者が精神疾患をもっていたことから、「施設で平穏に暮らしていた障害者を、精神障害のある容疑者が襲った猟奇的事件」「障害者の間で起こった困った事件」(10)という矮小化がなされ、他方で、被害者は匿名でありかつ被害者を共感の対象とするような情報の提示は少なかったように思われます。いわば被害者は障害という“属性”をもつ他者であり、こうした他者化のうちに脅威のリアリティも欠如していました。少し長めの引用になりますが、星加良司氏は次のように述べています。「『テロ』報道に典型的なのは、我々の社会に対する外的な脅威として事件を描く図式である。そのために、加害者側が、理解しがたい思想や心情をもった絶対的な『他者』であることを強調する一方、被害者側には、我々に共感可能なストーリー(夢や生き様、親しい人との関係など)があったことを焦点に当てることで、我々の社会の『内側』の存在であることを印象付ける。……翻って、相模原での事件に関する報道について振り返ると、被害者を『我々』の側に位置づけようとする姿勢は、初めから決定的に欠けていたように思えてならない。……『実名/匿名報道』の問題も、そうした姿勢の反映であるように思う……事件は『施設』という空間的にも心理的にも『我々の社会』から隔絶した場で起こった出来事であり、被害にあった人びとは『知的障害』という『異質』と思われている存在だった。だから、この事件がいかに残忍で卑劣な犯行であったとしても、それが『我々の社会』において『我々』に対して向けられたものだというリアリティを、多くの人は感じなかったということではないだろうか。私が直感的に覚えた違和感の正体は、まずは、この社会が重度障害者をこれほど絶対的に他者化しているという事実を、改めて突き付けられたことへのショックだったのだと思う」(11)。また、被害者の匿名性ということについていえば遺族のなかには、「事件がなければ、周囲に隠し通せたのに」(12)という声もあり、いかに日本社会が、障害をもつ人にとって居心地の悪い社会かということを映し出す声でもありましょう。

 この事件のもうひとつの大きな特徴として、U への賛同・同情の声があったということがあります。時代のムードや情念、社会思想や社会心理に関心がある私としては、この点にやはり注目していきたいと思います。主としてネットなどで多かったわけですが、大きくわけて二つありました。一つ目は、①消極的賛同・条件付き同情です。これは「障害者福祉施設で勤務した経験があるが、自分も殺意を感じたことはある」「行動に移すのはよくないが気持ちはよくわかる」といった声です。二つ目は、②積極的賛同です。「障害者が税金を使うばかりで社会の邪魔になっている」「家族が手に負えなくなって障害者を施設に入れるのだから、容疑者が障害者を殺してくれてよかった」という意見です。通常このような事件が起こったとき、U に対するバッシングが大々的に起こるわけですが、賛同の声があった。これは、この事件のおおきな特徴であったかと思います。とりわけ「気持ちはわかるが行動に移すことはよくない」という①が多かったわけですが、これらが暗に前提していることは「障害者は不幸しかつくりださない」という価値規範ではないでしょうか。辺見庸氏のサガミハラ事件をあつかった『月』という小説のなかに「衝動の代行、、、、、 」という言葉がでてくるのですが、非常に示唆的に思われます(13)。すなわち、“裁かれているのは誰か”という大きな問いに私たちは否応なく直面することになるはずです。また、冒頭で申し上げたひきこもりの息子を「迷惑かけるのではないか」ということで父親が殺害した練馬の事件でも、その後父親に対して賛同の声がありました。構図としてはサガミハラへの賛同の声と相似形であり、やはり「生産性」という言葉がみえかくれいたします。

 他方、事件を批判する側としても、「弱者、、を狙うのはひどい」言説では、障害者は守られるだけの力弱い価値の小さい存在である印象を植え付けることになり、優生との関係でいえば、“こちら側(健常者)”と“あちら側(障害者)”という線引きをすでに行っているという意味で、U への賛同・同情言説と共通の土俵にあるといえます。少なくとも愛と正義によるパターナリスティックな代弁主義では闘えないという難しさがあります。医学モデルの枠組みの下では、健常者になればコミュニティの中で生きられるが、そうでなければコミュニティから排除され、隔離的な施設で生きるほかない。こうした時代背景の中で、1970年前後には「この子がかわいそう」というパターナリスティックな代弁主義に基づき、愛と正義の名の下に、母親が障害を持ったわが子を殺す、という事件が相次ぎました。それはU の主張するところの慈悲殺/安楽死と同根の構造となってしまう。

 またたとえば、障害者解放運動で闘った横塚晃一氏は「自分より障害の重い人を見れば『私はあの人より軽くてよかった』と思い、また知能を冒されている人を見れば『自分は体はわるいがあたまは……』と思うのです。/なんとあさましいことでしょう」(14)とかつて述べ障害者間の差別意識を批判しましたが、いやむしろ日本社会全体を覆っている心理ではないかと思われます。“自分より序列が低いと考えた人間を見下して安心する心理”、いわば無限の“下方比較”の螺旋というような心理がいま働いているのではないでしょうか。先ほどみてきた「障害者の間で起こった困った事件」という報道の構図も、“こちら側(健常者)”と“あちら側(障害者)”で線をひいて、こちらはあちら側よりマシだという装置として機能していたように思われます。

Ⅱ 構造化される〈いのち〉の選別―〈はざま〉としての「新型出生前診断」

 このような状況をふまえたうえで、次に「新型出生前診断」についてみていきたいと思います。時間軸でいえばフクシマとサガミハラのはざまでそれは開始されました。概略的なお話しになりますが、開始当初、次のように報道されていました。「妊婦血液でダウン症診断 精度99%、来月にも」。2012年8月29日、『読売新聞』は一面トップで新型の出生前診断を報じました。その後、私たちが目にするメディアには、「妊婦血液」「ダウン症」「99%」という三つの言葉が洪水のように溢れかえることになります。こうしたなか、2013年4月から「新型出生前診断」(無侵襲的出生前遺伝学検査)は始まりました(15)

 21トリソミー(ダウン症)、13トリソミー、18トリソミーの染色体異常が検査可能であり、簡易、安全、99%がうたい文句であったように思われます。わずか20cc の採血で妊娠10週から検査をうけることができ、結果がでるまでには2週間かかりますが、中絶が許されている21週6日までには一定の時間があり、「考える時間」が与えられます。また、もし中絶を選ぶにしても、早期であればあるほど、妊婦への身体的な負担(ならびに経済的な負担)は小さくてすみます。このような検査が登場しそれが「福音」として響く背景には、高齢出産の増加が挙げられます。高齢出産とは、35歳を過ぎて初めて出産することを意味し、染色体異常は母親の年齢が高いほど起きやすいと言われております。ダウン症に関していえば、出産年齢が40歳だと60人に1人、35歳では200人に1人となることがわかっており、こうした「リスク」の回避が福音の内実といえましょう。とはいえ、中絶を選ぶ場合、妊娠12 ~ 21週となるため、中期中絶=死産としての扱いをうけることになります。また、もとよりこの「99%」というのは、たとえばダウン症の胎児が100人いれば99人わかるという意味であり、検査の結果陽性ならば99%の確率で染色体に異常があるというわけではありません(16)

 しかしながら、2013年の4 ~ 5月に検査を受けた妊婦が約1500人と当初研究機関の予想に反し1.5倍となり(17)、開始から半年が経過した11月、ある報告が発表されました。この時点で、検査を受けた妊婦約3500人。陽性だったのは全体の1.9%にあたる67人。このうち羊水検査など確定診断を受け、陽性が確定し、流産もしなかった妊婦が54人。そのうち、53人が中絶を選びました。一人は、調査時、妊娠を継続するか否かを悩んでいたそうです(53人の内訳は、ダウン症33人、13トリソミー4人、18トリソミー16人)(18)。陽性と確定した妊婦から、産むという結論に至る女性がいなかった事実をどうみるべきでしょうか。ちなみに、開始から一年間で検査をうけた妊婦は約7800人となっています(直近では約7万人)。

 確かに、「新型」は国家による露骨な強制ではありません。「妊婦さんの決定だから」という言葉に、返す言葉をもつ人はどれほどいるでしょうか。けれども、個人的な決断が一致するところの集団的結果をみるならば、端的に、抑制的優生学である言えましょう。また、そもそも実質的な意味で自由意志による決定となっているのだろうか、と。

 DPI 女性障害者ネットワークは、女性が検査を“選択”する背景に目を向ける必要があるとして次のように述べています。「障害をもつ子の子育てが、そうでない場合に比べて困難な中で、検査の方法だけがあり、産むか産まないかの決断を女性が迫られるなら、子が障害をもって生まれることを女性に回避させる圧力となります。自由な意志とは言えません」(19)。日本ダウン症協会もまた、日本産婦人科学会に要望書を提出して、検査が「マス・スクリーニングとして一般化することや、安易に行われることに断固反対」であり、今回の検査が、一般の検査同様、血液検査で行えるからといって、「妊婦に紹介されたり実施されたりすることには、当事者団体として強く異議を申し立てます」と述べました。

 それにしてもなぜ、障害児とりわけダウン症の胎児がこれほどまでに狙われるのでしょうか。横浜市大の調べによれば、胎児の染色体異常を理由とした中絶の件数が2000年から2009年までの10年間で、その前の10年間に比べて倍に増え、なかでもダウン症を理由に中絶した件数が、368件から1122件と急増したと発表しました(20)。日本ダウン症協会の玉井邦夫氏は次のように言います。「なぜ、ダウン症がここまで、標的になるのか?(中略)なぜなのだろうと考えたときに、ただひとつたどり着ける結論は、彼らが立派に生きるからです」(21)。長く生きるから、生きるからこそ、標的となる。ダウン症の特徴の一つに精神的発達遅滞、、がありますが、「生産性」(能力/生産力至上主義)の現代において、それは費用対効果からみてコストとして指定され、リスクとしてみなされ得る。合理的・効率的判断のできる自己意識をもった“人格”が想定されるとき、〈遅れ〉は許されません。高度情報化社会の現在、もはや速度は光の〈速さ〉となりました。

 いまや、検査は「誰もが受けられる検査」から「受けないわけにはいかない検査」に構造化(=システム化)されつつあります。今後、「選ばないことを選ぶ」ことは一層困難となり〈いのち〉の係留点としての女性身体への圧力は増すことが容易に予想されます。“人格”から“生そのもの”を奪還することはできないのでしょうか。

Ⅲ 〈重なり〉が示す論理と心理―〈わたし〉の“生き難さ”
1)日本における優生の土壌

 これまでみてきたように、フクシマとサガミハラが炙り出したものに私たちの「内なる優生思想」というものがあるかと思います。少なくともU の主張は「異常」として割り切れない、私たちの日常と地続きの関係にあります。そもそも優生の土壌として日本では、「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」ことを目的に掲げた優生保護法が1996年まで続いておりました。障害者や関係者の粘り強い運動でようやく廃止されましたが、優生保護法下で行われた不妊手術は「強制」と「同意」を含めて少なくとも2万4991件に及びます(22)。優生保護法ですら認めていなかった子宮摘出の手術等も行われ、1980年代半ば障害者入所施設の全国研究大会事例報告まで行われていました。また国連の人権条約から度々勧告を受けており、女性差別撤廃委員会からは2016年3月に勧告が出されました。そのパラグラフ24、25には「強制的な優生手術被害者(70%が女性)の調査、加害者の訴追、有罪となった場合の処罰、正式な謝罪及び被害者の法的救済、補償、リハビリテーションなどを提供するよう勧告する」といったことが強い調子で述べられたのでした。

 こういった歴史的経緯の上で「新型出生前診断」は開始され、2016年の『毎日新聞』の報告では96.5パーセントが陽性から中絶を選ぶという事実が大きく報道されました(23)。技術の進展にともなって出産という自然/偶然性が選択/必然の舞台に立たされることになると、それらを見る第三者の規範も大きく変化します。米本昌平氏や玉井真理子氏らの著作から象徴的な言葉を少し引いてみたいと思います。「選択的中絶が個別に行われた結果、出生前診断が可能な特定の病気や障害をもつ子どもの出生が激減する現象が実際に起こっている。そのために、こうした病気や障害をもって生れてきた子どもたちは『中絶を失敗した子ども』『中絶を怠ったために生まれた子ども』という否定的なまなざしにさらされるとともに、専門医の減少などによって社会的支援が受けにくくなる恐れがある」(24)。また、「ダウン症の子どもの親たちの間で、半ば冗談で、半ば深刻に語られていることがあると。ダウン症は『博物館行き』になる運命なのだろうか、と。『昔はいたよね、あんな人たちが』『今ならあんな子を産まなくてすんだのに』と、ちまたでささやかれるような時代が来るのかどうか。『まだあんな子が街をウロウロしている』と、『全国指名手配』されるような時代がくるのかどうか」(25)と。

 「自己選択/決定」はとりもなおさず個人の「自己責任」へと還元され、差別の正当化装置となるのではないでしょうか(26)。それはヘイト・スピーチ/クライムと連続上の関係にあると思います。また、「生きるに値しない生命」というU の考え、これはなにもU に限ったものではなく、見方によっては多かれ少なかれ私たちも抱いている可能性があるということをみてきたわけですが、それでは、私たちは通常、「人間」といった場合、自己意識をもった理性的“人格”を想定しますが、ここにかなりの厄介な問題があると思います。倫理学説という意味では、人間生命を「人格的生命」と「生物的生命」とに二分し前者を備えるものに倫理的配慮・生存権を与えるとするパーソン論―もとよりこのような境界づけによってパーソン論からこぼれ落ちる存在が倫理的に配慮されなくてもよいという言説とはそもそもパーソン論の内部で倫理的に配慮されうる主体によって、、、、、、、、、、、、、、、、形成されている(27)―とどう向き合うかという問題とかかわってきますが、U は新たに「心失者」という概念をもちだします。これは他者と意思疎通ができない人と定義されるわけですが、 U は「世界人権宣言」における人間の尊厳をも引用しながら「心失者」概念にふれ、ナチスのユダヤ人虐殺は否定し世界平和を願い、障害者殺害を肯定します。

 ここでいう障害者とは、たんに障害を持つ人ではなく「生産性」のない障害者にあたるわけですが、ここにおいて古典的な狭い意味での優生思想ではとらえきれないU の考えがみえかくれします。いまや障害者/非障害者ではなく、心失者/非心失者という線引きが行われ、端的には、「生産性」がメルクマールとなっております。こうした意味で、事件後、私たちは人間の尊厳をいかに語りうるか、という問いが立ち上がるのではないかと思います。

 ともあれ、私の強烈な問題関心としては、〈生〉そのもの―「ただ、『在る/居る』ということ」―の肯定はいかにして可能か、という問題意識があります。たとえば、「どんなに重度の障害者の生にも価値がある」といったような言説では意味/無意味、善い生/悪い生という差別的二分法が温存され“価値”という観点を介在させた途端に“属性”に基づく線引き/序列が生まれてしまう。これとは違った形で肯定のありようを構築できないかと。少なくとも自己肯定感をもつことが「内なる優生思想」への歯止めになるのではないかと考えているのですが、次になぜ〈私〉は線を引くのかということを時代の生きがたさを念頭において幾人かの人の発言を見ていきたいと思います。

2) なぜ、〈わたし〉は線を引くのか

 まず日本の社会的背景ないし心理としては、たとえば「生存圏をめぐる闘争」という問題が一つあるのではないかと思います。つまり国家の再分配も社会の相互扶助も信用できず、最後にのこされた生存のためのテリトリーが損なわれるのではないかという不安が覆っている。ギリギリまで狭まったそのテリトリーを死守しようとする切迫感をかかえ、ときとして排外主義にも加担するいわばグロテスクなマジョリティの存在がみえかくれするのですが、自分たちが脅かされているという得体のしれない恐怖や不安がベースにあるような気がいたします(28)。ほか生産力/能力至上主義、コミュ力を煽る社会、そして速度と権力の癒着、少なくともこうした背景があります。ちなみにU の「心失者」概念は、意思疎通ができないものというものでしたが、神経筋疾患ネットワークの中尾悦子氏は、次のように述べています。「障害者に近づくと心が乱されることも、近づきたくない理由かもしれません。単純に、他者といて、テンポのずれを受け入れるのは面倒なことです。あるいは、『迷惑』をかけてはいけないと言われて育ち、助けを求められない人たちは、助けられながら生きる障害者を見ているだけで腹が立つこともあるでしょう」(29)と。

 また、対談のなかで、熊谷晋一郎氏と最首悟氏は、「熊谷 競争に敗れれば次々に不要とされる社会構造の中で、生産能力の劣る人への手厳しさはどんどんエスカレートしている。障害がない人も、いつ自分が不要な存在になるのか、不安にさらされています。少ない椅子を奪い合う社会では、より不要とされる人に悪意や攻撃が向かいやすいのです。

 最首 現代は『私の存在価値は何か』『社会に役に立っているのか』という存在証明が難しい。終身雇用が失われ、弱者はいつ切り捨てられるかわからない。これは誰でもとてつもなく不安なこと。不安が解消されないから、まぎらわすしかありません」(30)と。

 杉田俊介氏は、とりわけ生き難さを感じている若者を念頭において、「杉田 根っこには強い被害者意識があって、自分は不幸で、自分を愛せない、と感じている。それは他人に言っても伝わらないし、世の中に訴えるほどの特別なハンディを持ったり、不遇な環境に生れたわけでもないし、それなのにこんなに苛々したり、つらいのは自分がおかしいんじゃないか……それは誰かのせいだ、と考えないとやっていられない……マイノリティではないけれどもマジョリティにも乗りきれなくて、不満を募らせ鬱屈している、というような領域」(31)があると。

 先ほど、グロテスクマジョリティという言葉もだしましたがまさにこの「領域」に深く関わってきます(杉田氏は、これまでマジョリティは自らを語る語彙をもたなかった、マジョリティの当事者研究というのが必要なのではないかと提起しているのですが、この点、今後も注視していきたいと思っております)。

 続いてより大きな視点(=社会構造)に立つならば、現代を特徴づける言葉に、後期近代、リキッド・モダニティ、再帰的近代、ネオリベラリズムがあると思います。もはやかつて基盤となっていたようなソリッドなもの、中間集団や信じられるもの、そこから離陸することが自立の目標であったわけですが、しかしながら、現代はソリッドなものが崩壊し、極めて流動的で不安定な社会に突入していることはつとに多くの人が指摘しているところですが、いわば私たちの日常とは、絶えざる“選択”の時であり、一切が個人に還元され、ネオリベラリズムにからめとられる形で、これまで〈自然さ〉であったり、〈その人らしさ〉といったものが、「努力」にとってかわる時代のように思われるのですが、やはりエーリッヒ・フロムを研究してきた私としては、いわば予定説的不安から逃れるために系列化された時間のなかで、「成功」や「役に立つ」ための脅迫的な、あるいはマゾヒズム的心理機制のもとでの私たちの「努力」衝動のようなものをみてとれるような気がするのですが、それは端的にはカルヴィニズム的であり、働いている心理は〈余計なもの〉の存在を必要条件とするファシズムと直線距離にあるようにも思われます。ちなみに、U の有名な七つの提案も、なんとなく禁欲主義的な一面もあります。

 こうした、生存圏をめぐる闘争、実存的な不安や孤独、個人化が進むなかで、生き延びるということとは何かを考えたときに、やはり熊谷氏の定義がケアや自己肯定、社会の寛容度という意味でもヒントになるのではないかと思います。

 すなわち「自立とは依存しないことではなく、依存先が複数、、あることだ」というものです。

 これまで、自己決定や選択、自己責任ということをみてきましたが、それに先立って、複数の依存先が必要不可欠であり、この複数性ということに着目して、旧来人間存在の基礎単位として自明とされてきた、「個人」概念を「自己肯定感」を軸に懐疑的に検討してみたいと思いますが、自尊感情のはぐくみを基礎にした社会の寛容度こそが、私たちの「内なるU」への歯止めになるかと思います。

Ⅳ 主体の複数性―「個人」から「分人」へ

「人間は、生きていくためには、どうしても自分を肯定しなければならない。自分を愛せなくなれば、生きていくのが辛くなってしまう。しかしですよ、自分を全面的に肯定する、まるごと愛するというのは、なかなか出来ないことです。よほどのナルシストじゃない限り、色々嫌なところが目についてしまう。しかし、誰かといる時の自分は好きだ、、、、、、、、、、、、、、と言うことは、そんなに難しくない。その人の前での自分は、自然と快活になれる。明るくなれる。生きてて心地が良い。全部じゃなくても、少なくとも、その自分、、、、は愛せる。だとしたら、その分人を足場に生きていけばいい。もしそういう相手が、二、三人いるなら、足場は二つになり、三つになる。」

(平野啓一郎『空白を満たしなさい』より)

ということで、文脈としては、かなりアクロバットなつなぎ方で試論になりますが、近年、「分人主義」という考え方を提唱している、作家の平野啓一郎氏の思想に着目してみたいと思います。分人という単位は、生き延びるうえでも、あるいはケアの未来ということでもヒントになるかと思っております。中動態の概念と親和的だとも思うのですが、ちなみに、平野氏は自殺予防等の講演にも呼ばれていたりしていますが、自殺もまた自らの生を「生きるに値しない生」としてくくるという意味では、これまでの議論と関連があるかと思いますが、まず、命題的にいえば、次のようになります。

私という人間は、対人関係ごとのいくつかの分人dividual によって構成されている。そして、その人らしさ(「個性」)というものは、その複数の分人の構成比率によって決定される。

 旧来の「個人」はindividual の訳語で、in + dividual、divide(分ける)という動詞に由来するdividual に、否定の接頭辞in がついた単語です。individual の語源は、直訳するならば「不可分」、つまり「(もうこれ以上)分けられない」という意味であり、それが今日の「個人」という意味になるのは、ようやく近代に入ってからのことでした(32)。また、個人という単位は近代国民国家の統合原理や、あるいはフーコー的に言えば、非人称の権力が私たちをはっきりと対象化するうえで、都合がよかったわけです。

 ところが、私たちの日常の生活世界や対人関係を緻密に見るならば、この「分けられない」、首尾一貫した個人概念(=「本当の自分」)は、あまりに大雑把で、硬直的で、実感から解離しているのではないだろうかと。しかしながら、私たちは、臨床心理学然り、精神病理学然り、このような一点を中心として高度に統合された自己像(=近代西欧型自己)を前提としたうえで(33)、―これまでみてきた自己意識をもった理性的存在としての“人格”とも関わります―とりわけケアのありようをはじめ多くを議論してきたように思われます。

 これに対して、「分人」とはdividual 「分けられる存在」であり、対人関係ごとの様々な〈わたし〉を意味します。相手との反復的なコミュニケーション(=相互行為)の中で自分の中に形成されるもので、―両親との、恋人との、親友との分人、人のみならず、ネット、小説、音楽、芸術、自然との分人といった形で、出会いにおいて立ち上がる文脈と言ってもいいかもしれません。平野氏によれば、人間は、多種多様な分人の集合体であり、個人が整数であるとすれば分人は分数のイメージです。すなわち、一人の人間は、複数の分人のネットワークでできており、「本当の自分」という中心はない(34)

 相手によって異なる複数の文脈をいきる〈わたし〉を肯定するのが、分人主義であり、複数の分人を生きているからこそ私たちはまた精神のバランスを保てる。したがって分人の発想に立てば、たとえば、あなたのわたしに対する否定の言葉が届くのは、わたしのあなた向けの分人までであって、原理的にわたしを全否定することはできない。全否定は個人を前提にします。むしろ、そうした相対性のなかで、好きな自分でいられる、肯定しうる分人のウェイトにまなざしを向け、そこを足場にして生き延びる戦略と言ってもいいかと思います。あるいはこのような世界を「生活表の一区画」としてもつことで、安心できるとも言えます。〈他なるもの〉との相互行為において立ち上がる〈わたし〉、文脈とは、自然とそうなっているのであって、中心がありそれがキャラを演じているわけでも、仮面を操作しているわけでもないと考えます。

 人間が常に首尾一貫した、分けられない存在だとすると、現に色々な〈顔〉があるというその事実と矛盾する。それを解消させるためには、自我(=「本当の自分」/近代西欧型自己)は一つだけで、あとは表面的に使い分けられたキャラや仮面、ペルソナ等に過ぎないと、“属性”に基づき価値の序列をつける以外にはありません。この“構え”すなわちたった一つの「本当の自分」という発想は人間を閉じこめる檻ですらあるでしょう(35)

 これらをふまえ、さらに命題化するならば、

 個人individual は、他者との関係においては、分割可能dividual である。
そして、分人dividual は、他者との関係においては、むしろ分割不可能individual である。

 この意味において、少なくとも狭義の自己責任などは問えない。平野氏は言います。「私たちは、隣人の成功を喜ぶべきである。なぜなら、分人を通じて、私たち自身がその成功に与っているからだ。私たちは隣人の失敗に優しく手を差し伸べるべきである。なぜなら、分人を通じて、その失敗は私たち自身にも由来するものだからだ。」(36)と。

 ここで、今日の“構え”という主題に立ちかえるならば、あらゆる線引きの“構え”とは、個人(=近代西洋型自己)を前提にして他者とは分割可能であるがゆえに、それを所有という形で表象しうる“持つ構え”とみることができるのに対し、分人とは主体に内包する複数の他者性を前提にして、出会いにおいて立ち現われる動的なエフェクトとしての〈わたし〉すなわち“在る構え”としてひとまず考えられるのではないでしょうか。そして、非人称の権力にとりこまれつつも、線引きの暴力に抗う抵抗点になりうるのではないかと思います。

 それはとりもなおさず、「生産性」に象徴される事態へのミクロな〈場〉からのオルタナティヴになるのではないでしょうか。分人主義のほんの入り口にしかふれることができませんでしたが、この点、今後、さらに深めていきたいと思っております。

 最後になりますが、サガミハラでは賛同の声がありました。このような状況に注目して発表させていただいてきましたが、U と〈わたし〉は何「が」違うのか、ではなく、何「か」違うのだろうか、と問うことこそ重要だと思います。私たちはなぜ、自らの暴力衝動を発動させずに、事件を起こさないでいられるのでしょうか。そこには、セイフティネットとしての、複数の文脈をいきることによる自己の肯定がみえかくれしているように思われます(37)。ご静聴ありがとうございました。


(1) 野村昌二「放射能と『妊婦の心』」『AERA』24(36)、 朝日新聞出版、2011年、25頁。
(2) 同上。ほか、核戦争防止国際医師会議ドイツ支部『チェルノブイリ原発事故がもたらしたこれだけの人体被害―科学的データは何を示している』松崎道幸監訳・矢ヶ崎克馬解題、合同出版、2012年、45頁、参考。
(3) 本多創史「 再帰する優生思想」赤坂憲雄・小熊英二編『「辺境」からはじまる―東京/東北論』 明石書店、2012年、116-121頁。
(4) 大橋由香子 「しがらみ、なりゆき、あきらめの中での、一人ひとりの選択を大切にしたい―母性・フェミニズム・優生思想」近藤和子・大橋由香子編『福島原発事故と女たち―出会いをつなぐ』梨の木舎、2012年、160頁。
(5) 立岩真也『 私的所有論〔第2版〕』生活書院、2013年、338-343頁。林千章「女(わたし)と身体―フェミニストの自己解放の拠点」『女性学』9、2001年、89頁、「出生前診断という問題―女性運動と障害者運動の対立を解きほぐすために」『女性学』17、2009年、125頁、参考。
(6) 本多創史、前掲、116頁。
(7) 米津知子「『障害は不幸』神話を疑ってみよう」『インパクション』181、インパクト出版会、2011年、42頁。
(8) 野崎泰伸「『障害者が生まれるから』原発はいけないのか」『部落解放』655、解放出版社、2012年、14頁。
(9) ヘイトクライムとは、個別のトラブルや怨恨等を理由とするものではなく、生れながらの人種、民族、宗教、性的指向、障害等の特定の属性を持つ対象への偏見や差別にもとづく憎悪によって引き起こされる暴力、虐待を意味する(保坂展人『相模原事件とヘイトクライム〔岩波ブックレットNo.959〕』岩波書店、2016年、8頁)。
(10) 尾上浩二「相模原障害者虐殺事件を生み出した社会―その根底的な変革を」『現代思想―相模原障害者
殺傷事件』vol.44(19)、青土社、2016年、71頁。
(11) 星加良司「『言葉に詰まる自分』と向き合うための初めの一歩として」『現代思想―相模原障害者殺傷事件』
vol.44(19)、青土社、2016年、88-90頁。
(12)『 毎日新聞』2016年9月14日付。
(13) 辺見庸『月』角川書店、2018年、234頁。
(14) 横塚晃一『母よ!殺すな〔二版〕』生活書院、2010年、36-37頁。
(15) 玉井真理子は、「狭義の出生前診断」と「広義の出生前診断」は概念上区別されうるとし注意を促している。前者は「胎児における特定の疾患およびその可能性を発見するために、人工妊娠中絶が可能な妊娠二二週未満に結果が出ることを前提にして行われ」、後者は「胎児の順調な成長や妊婦の健康をサポートするために役立ち、さらに、分娩後の適切かつすみやかな医療的対応のために必要な情報を増やしてくれるものである」(玉井真理子「出生前診断における『機会の平等』―『知らせる必要はない』問題再考」『思想』979、岩波書店、2005年、112頁)。
(16) 厚生福祉編集部「新型出生診断、来月にも」『厚生福祉』5977、2013年、11頁。
(17)『 読売新聞』2013年7月16日付。
(18)『 毎日新聞』2013年11月22日付。
(19) 利光恵子「血液検査で子どもの障害がわかるって、それって、いいこと?」『部落解放』678、解放出版社、2013年、55-56頁。
(20)『 読売新聞』2011年7月22日付。
(21) 坂井律子『いのちを選ぶ社会―出生前診断のいま』NHK出版、2013年、162頁。
(22) 毎日新聞取材班『強制不妊―旧優生保護法を問う』毎日新聞出版、2019年、10頁。
(23)『 毎日新聞』2016年4月25日付。
(24) 米本昌平・松原洋子・橳島次郎・市野川容孝『優生学と人間社会―生命科学の世紀はどこへ向かうのか』
講談社現代新書、2000年、235頁。
(25) 玉井真理子・渡部麻衣子『出生前診断とわたしたち―「新型出生前診断」(NIPT)が問いかけるもの』生活書院、2014年、218頁。
(26) 自己決定権と自己責任論は表裏の関係にある。そこには「権利」として付与するがゆえに、自己決定しえないというアポリアがある。自己決定権と自己決定の区別については、小松美彦『「自己決定権」という罠―ナチスから相模原障害者殺傷事件まで』言視舎、2018年を参照されたい。
(27) 野崎泰伸『生を肯定する倫理へ―障害学の視点から』白鐸社、2011年、130頁、参考。また、パーソン論の代表的論者エンゲルハートは次のように述べている。「人格の特徴は、自己を意識することができ、理性的で、賞罰の価値に関心をもちうる点にある。……すべてのヒトが人格であるわけではない。……胎児、乳児、ひどい知恵遅れの人、不可逆的昏睡状態にあるヒトなどは、人格ではないヒトの例である」。続けて、「厳密な意味での人格である人びとに、不当な経済的、心理的負担をかけないようにすることは、道徳的に根拠がある」(Jr エンゲルハート・H. トリストラム/加藤尚武・飯田恒之訳『バイオエシックスの基礎づけ』朝日出版、1989年、133頁)。
(28) 雨宮処凜編『この国の不寛容の果てに―相模原事件と私たちの時代』大月書店、2019年、166-172頁、参考。
(29) 中尾悦子「相模原市障害者殺傷事件から見えてくるもの」『現代思想―相模原障害者殺傷事件』vol.44(19)、青土社、2016年、81頁。
(30) 朝日新聞取材班『盲信―相模原障害者殺傷事件』朝日新聞出版、2017年、195頁。
(31) 立岩真也・杉田俊介『相模原障害者殺傷事件―優生思想とヘイトクライム』青土社、2016年、205-227頁。
(32) 平野啓一郎『私とは何か―「個人」から「分人」へ』講談社、2012年、3-4頁。また、平野は次のように述べている。「今でこそ、当たり前になっているが、明治になって日本に輸入された様々な概念の中でも、『個人individual』というのは、最初、特によくわからないものだった。その理由は、日本が近代化に遅れていたから、というより、この概念の発想自体が、西洋文化に独特のものだったからである。……一つは、一神教であるキリスト教の信仰である。『誰も、二つの主人に仕えることは出来ない』というのがイエスの教えだった。人間には幾つもの顔があってはならない。常にただ一つの『本当の自分』で一なる神を信仰していなければならない。だからこそ、元々は『分けられない』という意味しかなかったindividualという言葉に『個人』という意味が生じることとなる」(平野啓一郎、上掲、64頁)。
(33) 広沢正孝『学生相談からみた「こころの構造」―〈格子型/放射型人間〉と21世紀の精神病理』岩崎学術出版社、2015年、135頁、参考。
(34) 平野啓一郎、前掲、67-70頁、参考。
(35) 平野啓一郎、上掲、36頁、参考。ここで役割概念との相違について中井孝章は次のように述べている。「役割と〔平野が言うところの―補足筆者〕分人は根本的に異なる。一言で述べると、他者とのかかわり中で他者から期待されるのが役割であるのに対し、他者との(反復的な)かかわりの中で自然に構築されてくるのが分人であるということである。役割が他者から期待されるものであるがゆえに、私にとってそれは必ずしも本質的なもの、本意のものだとは限らない。むしろ、役割には不本意さが影のようにつきまとうため、その背面にさまざまな役割には還元され尽くせない『本当の自分』を生み出してしまうのである。これに対し、分人はこれまで述べてきたように、すべてが〈本当の自分〉なのである・・・・・・その意味では分人は『本当の自分/ウソの自分』を超えている」(中井孝章『分人主義宣言―ヒューマンウェアの転回』日本教育研究センター、2014年、13-14頁)。
(36) 平野啓一郎、上掲、165頁。
(37) 分人主義のケアへの応用ということで、具体的にパーソナリティ障害と呼ばれる事例を通して、可能性をみたものに次のような研究がある。ちなみに、サガミハラのUも、自己愛性パーソナリティ障害という診断がついていた。改めて、分人主義をまとめてみるならば、たった一つの「人格(individual)」をもつものではなく、実際には対人関係ごとに異なる「その人らしさ」を生きているという考え方である。個人の中には、対人関係の文脈に応じて自然と生じるさまざまな「分人」がおり、それは本当の自分が、色々な仮面(キャラ)を使い分けることとは区別される。「キャラ」とは違い、演じ分けたりするひとつの主体があるという「操作的(operational)」なものではなく、向かい合った相手との「協働的cooperative」なものであり、その場や相手に応じた「自分」になってしまう(文脈ごとに呼び出される)。精神疾患に対する旧来のあり方は「人格」の歪みを薬物療法・認知行動療法によって「治す」ということであった。しかし、「分人主義」では、「治療」とは異なる当事者たちにとっての〈回復〉のかたちを示せるのではなかろうか。澤田唯人が述べているように、診断まもない当事者たちが自己破壊的行為(リストカットやオーバードーズ)を抱えていく〈生成〉プロセスの起点には、確かに精神医学が指摘するように、「過去」の深刻な経験を、「現在」に再演させる葛藤的文脈の存在が認められる。だが同時に、それ以外の文脈では「何も問題はなかった」と語られる場合がある。すなわち、生活世界の複数性が保たれ、問題は住み分けられている、、、、、、、、、。しかし、彼女/彼らたちが、次第に葛藤的文脈に「留め置かれ」、生活世界の複数性を失うことで事態は〈深刻化〉していくことになる。つまり当事者たちは、人格機能の歪みから単線的に、、、、社会生活に困難を抱えているのではなく、あくまで生活世界における葛藤的文脈の側の肥大化によって、複数的な生活世界のバランスを崩されるために、見かけ上、「パーソナリティ」に問題があるかのような状態になっていく、、、、、のである。ある当事者は、この〈深刻化〉のプロセスを「分人主義」の考え方に基づいて、次のように語る。「一番ひどいときは、特定の分人だけがめちゃくちゃ大きいんですよ、比率的に、ほかの分人がちっちゃすぎて、だから影響すごい及ぼしちゃう」。この語りは、自己破壊行為に及ぶことになった特定の「分人」が、それを〈生成〉させた文脈との共謀関係のなかで肥大化し、ほかの生活世界の文脈を相対的に縮小させ、破綻させていく事態として捉えられる。以上から、当事者にとってのBPD(境界性パーソナリティ障害)からの〈回復〉の軌跡が、「パーソナリティ」の治療ではなく、むしろ「自助グループ」や「就労支援」などを通じ、再び生活世界の複数性とそのバランスを取り戻していく過程(=葛藤的文脈の相対的縮小、、、、、)と相即的な営みであることが示唆される。実際、ある別の当事者は、次のように語っているようだ。「まだ(腕や手首を)切りたくなるような感じはたまにでてくるけど、ボーダーさん(BPD)は小さく、、、なってきています」。こうした語りは、問題が実体的なものではなく、あくまでいまここという特定の文脈的状況との関係性のなかで立ち現われる、ひとつの「分人」の姿であることを示している。ひとは本来、たったひとつの「人格」ではなく、状況依存的・他者依存的に複数の、、、「分人」を生きるのだとすれば、それらのあいだのスムーズな往来を支える、生活世界の「複数性」への支援それ自体が、心理療法などと並ぶ重要な効果をもつことを裏づけることになる。当事者にとっての〈回復〉とは、生活世界の複数性を取戻し、問題を抱える「分人」を(治すのではなく)相対的に縮小させていく(=ほかの分人たちの出番を増やしていく、、、、、、、、、、、、、、、、、)ことであるという視点はケアの思想への流入を示唆するものではなかろうか(澤田唯人「『境界性パーソナリティ障害』からの〈回復〉とは何か」『慶応義塾大学大学院紀要』Vol.82、 2016年、 参考)。ほか近年、分人主義に光をあて、個人還元主義を批判し現代の精神病理を読み解いたものに、時岡良太『「自分」とは何か―日常語による心理臨床学的探求の試み』創元社、2018年、がある。

〔付記〕本発表は、2019年6月1日に開催された関東医学哲学・倫理学会(於)東洋大学での拙稿を基に加筆・修正を加えたものである。